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吉野の桜の文学・人 最初に吉野の桜を歌ったのは「古今和歌集」の三首です。 み吉野の山辺に咲ける桜花 雪かとのみざあやまたける 紀 友則 白雪の降りしくときはみ吉野の 山下風に花ぞ散りける 紀 貫之 越えぬまは吉野の山の桜花 人づてのみに聞きわたるかな 詠み人しらず 次にあるのが西行。新古今集にも吉野の桜を歌っていますが、「山家集」には様々な 吉野の桜を 歌っています。一部を紹介してみると 誰かまたはなをたづねて吉野山 苔踏み分けて岩つたふらむ 吉野山雲をはかりに尋ね入りて 心にかけし花を見るかな 思ひやる心や花にゆかざらん 霞こめたるみ吉野の山 まがふ色に花咲きぬれば吉野山 春は晴れせぬ峯の白雪 吉野山梢の花を見し日より 心は身にも添はずなりにき 裾野焼く煙ぞ春は吉野山 花を隔つる霞なりける 吉野山細路伝ひにたづね入りて 花見し春はひと昔かも 吉野山谷へたなびく白雪は 峯の桜の散るにやあるらん 吉野山峯なる花はいづかたの 谷にかわきて散り積もるらん 吉野山花吹き具して峯越ゆる 嵐は雲とよそに見ゆらん 木のもとの旅寝をすれば吉野山 花のふすまを着する春風 吉野山桜にまがふ白雪の 散りなむのちは晴れずもあらなん 吉野山ひとむら見ゆる白雲は 咲き遅れたる桜なるべし 吉野山人に心をつげ顔に 花より先にかかる白雪 空渡る雲なりけりな吉野山 花持てわたる風と見たれば なにとなく春になりぬと聞く日より 心にかかるみ吉野の山 吉野山花の散りにし木のもとに 留めし心は我を待つらん 吉野山高嶺の桜咲きそめば かからんものか花の薄雲 吉野山麓の滝に流す花や 嶺に積もり雲の下水 根に帰る花をおくりて吉野山 夏の境に入りて出でぬる 笈の小文/松尾芭蕉 西行に対して限りない憧れと、強い敬愛の情をもっていたのが 松尾芭蕉です。俳人と言えば芭蕉と、俳句を知らない人であってもまず 思い浮かぶのが芭蕉です。その芭蕉は西行に近づくには吉野へ行くしか ないと感じ、その時に著したのが「笈の小文」です。 今回は、西行が 愛した吉野の桜を目的とした旅でした。 「よしのの花におもひ立たん とする」と思い立ち、満開の桜の吉野で三日間滞在したの ですが、・・・・・吉野の詠めに心うばわれ、西行の枝折にまよひ、かの 貞室が 「これはこれは」とうちなぐりたるに、われ言はん言葉もな くて、いたずらに口を閉じたる、いと口をし・・・・・と述べて、 結局一句も吉野の桜を詠むことができなかったといいます。 吉野の桜の素晴らしさに饒舌なまでに歌を著した西行。 それに対し、 あまりにもの吉野の桜の美しさに対して、言葉に出来なかった芭蕉。 実に対照的ですが、沈黙もまた吉野の桜の賛歌だったように思います。 菅笠日記/本居宣長 江戸時代においての最大の国学者は「古事記伝」を著した 本居宣長です。 宣長は実に吉野の桜と深い関わりを持っています。 松阪の商人だった宣長の両親は子供に恵まれず、当時から子授けの 神で有名だった吉野水分神社までやってきます。そしてその甲斐 あって授かったのが宣長でした。その意味でも宣長は吉野で生を 受けたといえます。宣長は十三才の時に一度お礼参りに水分神社 に来ているのですが、四十二才の時も吉野を訪れています。 この旅は吉野の桜が目的でした。宣長は竜在峠を越え吉野に入り、 千股から上市、桜の渡しで吉野川を越え、飯貝・丹治そして吉野 山へと登っていきます。その時長年の思いであった桜の歌を詠んでいます。 み吉野の花は日数も限りなし 青葉のおくもなほ盛りにて 実に生き生きとした歌で、いかにも楽しかった様子が伺えます。 その後も「鈴屋集」「鈴屋百歌」「石上稿」「自撰集」の中にも、 吉野の桜を詠んだ歌がたくさんあります そして71歳でこの世を去る前、宣長は遺言で「塚の上には 山桜を植えてほしい」と頼みます。それは吉野の水分で生を うけた自分の魂が、再び吉野へ帰りたいと望んでのことだった かもしれません。 吉野の花がたみ/良寛 一休さんと同じくらい民衆にとけ込み、民衆に指示 された僧侶の良寛さん。その良寛和尚もまた西行を追慕した 文人でした。彼は文章の中で、一軒の民家に泊めてもらい その家の翁が夜なべで作る小さな花籠に関心を寄せます。 木の薄い皮で編んであり、回りがカラフルな色で飾ってある この花籠を土産にしたいと考えました。この花籠はシングリ 籠とも呼ばれ、戦前までは吉野山の代表的な土産物でした。 その籠に吉野の桜の花びらを入れ、桜の思い出とともに持ち 帰るシーンは興味深い感じがします。 吉野の山/亀井勝一郎 ・・・・・どうも吉野の桜というやつは曲者らしい。 満山満開の花に接すると人間の心は浮かれて散漫になるのか もしれない。あるいは名句をひねってやらうと思っている うちに、花に酔ひ酒に酔ひ、人に酔ひ、みな酔漢になって 歌ひ棄てるのだらうか。乃至は吉野の花は一つの型になっ てしまったのか。花見に出かける人間は、まづ大抵月並な ことになってしまうやうだ。ところで、この月並の底に徹 して、やぶれかぶれになったあげく、有名な一句を残した 人がいる。 安原貞室である。 これはこれはとばかり花の吉野山 貞室は大酩酊したらしい。やけくそを起こしたらしい。 この気持ちを知っていたのは芭蕉である。「吉野の花に 三日はとどまりて、曙黄昏のけしきに向かひ、有明の月 の哀なるさまなど、心にせまり胸にみちて、あるは摂政 公のながめに奪はれ、西行の枝折に迷ひ、かの貞室が是 は是はと打ちなぐりたるに、我いはん言葉もなくて、 いたずらに口を閉ぢたる、いと口をし。思ひ立ちたる 風流いかめしく待れども、ここに至りて無興の事なり。」 と記しているが、貞室の句を、「打ちなぐりたる」と 評したところが面白い。 芭蕉の吉野吟遊は、「野ざらし紀行」 「笈の小文」に見えるが、満山満開をまつかうから吟じた 句は一つもない。「吉野にて桜見せうぞ桜笠」「桜さかり 山は日ころの朝ぼらけ」の二句が挙げられるかもしれないが、 少しずらしてあって、しかも軽い発想である。桜に向かって 頑張ると、貞室のようになることを芭蕉は知っていたと見える・・・・・ Copyright (C) 1998,2005 YOSHIDA MFC CO.,LTD.. All rights reserved. Feedback to webmaster@yoshida-mfc.com |