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吉野の桜の歴史 吉野と桜が最初に出会うのは、今から約千三百年前。当時の律令制度のため苦しんでいる民衆を 救済しようとする役小角(役行)が、最後の難行苦行の行場を金峰山上に見いだし、千日にわ たって祈誓したところ、最初は慈悲円満相の釈迦如来が現れ、千手観音や弥勒菩薩が次々現れ たといいます。 しかし、これらの優しい神々では人々を救われないと思い、尚も祈りを続けて いると岩山が揺れ動きものすごい雷鳴と稲光の瞬間、岩の間から火焔を背負った憤怒の姿いか めしい金剛蔵王権現が現れました しかし吉野のことを数多く歌っている「万葉集」には桜の吉野山が出てきません。この頃の吉野山にはあまり桜はなかったようです。吉野山に桜が咲くようになるのは奈良時代に入ってか らです。7世紀も終わりになると、飛鳥京、藤原京、平城京と相次ぐ遷都という大規模な公共 工事が行われました。その結果吉野を含む大和一円の常緑広葉樹や、針葉樹が建築材として伐 採され、その後赤松と山桜の二次林が形勢されるのが奈良時代だというのです。 吉野山は奈良時代の終わりには桜の山となっており、またそれが聖地としての吉野山のイメージをさらに印 象づける要因になったのかもしれません。 彼は平安末期の1118年に京都に生まれ、もともと鳥羽院に仕える北面の武士で、俗名を佐藤義清といい二十三歳で突如出家し西行と名乗ったといいます。 世俗を離れた西行は、当時霊山でもあった吉野山を訪れます。また当時の吉野山は歌枕であり、桜の名所でもありました。どちらが最初の目的かはわかりませんが、西行は非常に霊山吉野山に咲くサクラの美しさに惹かれるのでした。そのため三年もの間吉野に住み、奥の千本辺りに庵まで結びました。西行が吉野を歌ったのが五十首以上あるとされています。その歌がまた吉野山のサクラのイメージアップにも繋がったともいえます。その後この西行に憧れ、芭蕉・蕪村・良寛などがこの吉野を訪れたのは説明するまでもありません。 吉野山での桜のイベントでもっとも規模が大きく、その後の語り種となっているのが、太閤秀吉の吉野山での花見です。太閤となった秀吉は文禄三年(1954)、徳川家康・前田利家・宇喜多秀家・伊達政宗ら錚々たる武将や連歌師・能楽師・茶人達ら総勢五千人を連れ吉野山に着きました。太閤は吉水院を宿舎としましたが、あいにく3日間雨にたたられました。そして3日目の夕方、吉野山の僧侶に「明日雨が止まなければ吉野山に火をかけて即刻下山する。」と言ったそうです。それを聞いた僧侶は、吉野全体の僧侶に晴天祈願を命じ、その甲斐あって翌日は晴れ上がり、全山に咲きそろう吉野山の花見を楽しんだと言います。吉野山滞在中に詠んだ歌が次の歌です。 太閤秀吉 関白秀次 徳川家康 前田利家 伊達政宗 次の日には蔵王堂の庭で能楽を催し、秀吉自らも吉野詣を演じたといいます。 江戸時代には先程の芭蕉・貞室などが吉野の見事な桜を読み、それにつれて 平野の豪商末吉勘兵衛が一万本もの桜を寄進したのを始め、様々な人が寄進 をして吉野の桜にとっていい時代が続きました。しかし、幕府が崩壊し廃物 希釈の嵐はこの吉野山にも吹きあれ、蔵王堂信仰は懺滅状態に追い込まれま した。こうなると吉野山を訪れる人もなくなり、桜の木も伐採の危機が訪れ ますが、土倉庄三郎氏の援助のおかげで何とか桜の木の伐採という受難は免 れました。この時期が去ると今度は富国強兵の国粋運動が始まり、桜の潔さ が軍人の手本となり吉野の桜が再び脚光を浴びたのでした。 そして昭和に入 り、太平洋戦争後は反動で吉野山の桜にとって再びピンチの時代を迎えます。 しかし、その時も当時の野村證券会長の瀬川御美能留氏が多額の寄付を吉野 山に行い、この時も難儀を逃れることができたのです。 今も様々な自然災害 や経済の変化によって吉野山の桜は影響を受けていますが、何とかやってき ました。考えてみると、吉野山の桜は過去何回か受難を受けるのですが、必 ずと言ってよいほど神風(外からの力)が吹いて助けられます。 今も多分そ の受難にさしかかっている時期かもしれません。 ![]() Copyright (C) 1998,2005 YOSHIDA MFC CO.,LTD.. All rights reserved. Feedback to webmaster@yoshida-mfc.com |
写真提供:じゃらん.net
嘉永元年(1848年)「芳野日記」著者氷室長翁・、天保12年(1841年)「東路日記」著者小田宅子などに登場する歴史のある旅館で、御料理は、吉野本葛を使用した、独特の特製だしで作りあげた「西行鍋」(登録商標)を一品とした「西行御膳」が好評。 |